観音様とともに生きた109年。大西良慶和上(2015.0213)
建物は雨漏り、境内には仏像がごろごろ!? 最大の危機から立ち上がった清水寺
お若い頃の良慶和上。鋭い眼が印象的です。
明治32(1901)年頃に撮影された修復前の本堂。舞台の床が傾いています。(写真協力:京都市教育委員会)
珍しいヘルメット姿の和上(左から5人目)。写真の「瓜生野坑」から、静岡県の瓜生野金山か、愛媛県の別子銅山・瓜生野ではないかと思われます。
大正4(1915)年に始まった「うら盆法話」
現在の「うら盆法話」。5日間にわたって開かれ、森貫主の法話で締めくくられます。
良慶和上が当山に普山されたのは、今から100年前の大正3(1914)年、和上40歳のことでした。知らせを受けたのは北海道。布教で全国を巡っておられた時といいます。奈良興福寺の住職と兼任で清水寺の住職を引き受けられ、清水寺専任となるまでは、なんと徒歩で奈良と京都を行き来されていたのだとか。若いころから健脚で、講話などで遠方へお出かけの際には、80歳を過ぎても京都駅まで歩いて向かわれていたそうです。
さて、普山された当時、清水寺は復興の真っただ中にありました。と、いうのも、明治維新とともに世の中は一変し、これまで篤く信仰されてきた仏教は激しく排斥されたのです。神仏分離令に続いて起きた廃仏毀釈という運動で、わずか数年のうちに全国で多くの寺院が廃寺に追い込まれ、仏像が破壊されることまでありました。
当山も、東京遷都で皇室や公家といった庇護者を失い、上知令で領地の大半を没収され、経済的な苦境に立たされました。伽藍は修理もままならず、20あった塔頭は多くを手放し、境内には仏像や仏具が散乱するほどのありさまだったと伝わっています。
やがて、信者の方々やあまりの荒廃ぶりを憂いた京都の人々の支援を得て、かつての賑わいを取り戻そうとさまざまな手段を模索。なんと音羽の瀧の水でビールをつくって販売したこともありました。
良慶和上は、仏教を、民衆に寄り添い血の通った信仰へ復活させよう、人々に観音さまへの信心を取り戻してもらおうと、何よりも布教活動を熱心に行われました。今年で100回を迎える8月の「うら盆法話」は良慶和上が始められたものです。そして参拝を待つばかりでなく、精力的に講演に赴き、全国の人々に観音さまの教えをわかりやすいことばで説法。地蔵盆や千日詣りなど、明治時代に禁止された仏教行事も次々と復活していきました。
皆様から拝観料を頂戴するようになったのは、第二次大戦後、台風で倒壊した伽藍の莫大な修理費用がきっかけです。山内はもとより信者の方々からも強い反発があがった中で、未来の修復までを見据えての決断でした。そのほか、会則や役員が整った全国的な信者組織や、女性のための婦人会を設立。いずれも当時としては大変革新的な仕組みでした。そしてこれらの近代的なシステムづくりを進めたことで、檀家のない当山ならではの経営が成り立ち、徐々によみがえっていったのです。
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