地主神社の神職に聞く 音羽山に残る古代信仰の謎(2017.0413)
本堂→拝殿→本殿の、独特の配置は聖地の証
本堂の真後ろに立つ地主神社の朱塗りの拝殿。
16世紀前半の作と伝わる「清水寺参詣曼荼羅」(部分)。舞台のある本堂の後ろに描かれているのが地主神社。ほぼ現在と同じ配置です。
太古の昔、私たちのご先祖様は、太陽や山や水、石、樹木などあらゆる自然現象を神として崇め、依代、磐座といった神の降りる場所で、夜通し祈って踊りました。湖に浮かぶ小島だったこの地もそれら聖地のひとつだったのかもしれません。清水寺の縁起にも、奈良の僧、延鎮さんがこの地で出会った行叡居士は、音羽の瀧で何百年も修行しておられた仙人とも、観音様の化身ともいわれ、そのお住まいである庵は、瀧の上にあったと伝わっています。
中川さんは続けます。「ご本尊をお祀りする本堂はお寺で一番大切な場所。その真後ろに、階段状に神社の拝殿が立ち、その上に本殿が立つという配置は、ちょっと他ではみられない特徴的なものだと思います。私は、この形もこの地が聖地だったからこそだと考えるのです。平安時代、嵯峨天皇が地主神社の桜を愛でて、何度も車を戻してはご覧になったという伝承がありますが、地主神社には坂上田村麻呂公のものと伝わる太刀が奉納されていました。田村麻呂公といえば清水寺を開山された方であり、嵯峨天皇にとって田村麻呂公は、クーデター「薬子の変」を鎮圧してくれた大恩人。変の翌年に病没した公に感謝を示すため行幸され、何度も御車を返されたのは、桜を愛でるというよりも、公を偲んでのことではないか...。いずれにしても、この場所を、帝もとても大切にされたことがわかります。」
本堂と拝殿と本殿がいつから現在のような形になったのか定かではありませんが、本堂内々陣の床下には、平安時代に造られた土の檀が残り、清水寺創建から本堂の位置は変わっていないといわれています。また16世紀に描かれた「清水寺参詣曼荼羅」には、現在、私たちが目にする、江戸時代初期の建築とほぼ同じ配置が見られます。
長い歴史の中で建物は何度となく焼失と再建を繰り返しており、どこかのタイミングで、平地にしてもっと大きな本堂を建てることもできたでしょう。それなのに同じ配置で立て直されてきたのは、なぜか...。なんとも興味をそそるお話です。
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