いま、伝えたいこと
Words of Wisdom「 三 」
こころの蔵
清水寺の宗旨は北法相宗です。 「法相」とは、古代インドで誕生した「唯識思想(※1)」という仏教学派をもとに成立した宗派で「この世のあらゆる事象はこころの反映である」という考えから、人間の生き方を説いています。 「唯識」とは、「唯(ただ)」「識(こころ)」という意味。つまり、自分のこころから発信されたことの結果から起きた出来事をしっかり認識し、心を正していきましょうという教えです。 その唯識思想の中心にあるのが、「蔵識」という考え方です。これは人間の行いの結果がすべてその人のこころのなかに積もり集まっていくということで、文字通り「こころの蔵」。人間には人生経験のすべてが収められる蔵が存在しているのです。
蔵にはこれらの行為の印象が残らず収められます。行動や発言にとどまらず、心の内で密かに思ったことも例外ではありません。蔵は一般的にいう記憶とは異なる概念なので、自分自身がすっかり忘れている過去のことも収められています。また、蔵のなかには自分の行為だけではなく、先祖代々の三業もちゃんと収められています。したがって私の蔵には先祖代々のものと日々の生活の経験すべては収められているという二重構造になっています。
また、一度こころの蔵に収めたものは決して消えることがありません。善い行いをすれば善い結果が、悪い行いをすれば悪い結果が蔵に入り、その蔵の中身によって心がつくられていくのです。 そして私たちは、この心の蔵を通して世界を見ています。蔵の中身は人それぞれですから、同じ体験をしても人によって結果や感じ方が変わるのはそのためです。こころの蔵は人格をかたちづくる根拠であります。
私たちの人生は、善くも悪くもこころの蔵に収められている内容に基づいて構成されています。では、たくさん善行を積めば善人になるかというとそうではありません。仏さまの教えでは、こころは「無記(※2)」であると定義しています。無記とは心が善にも悪にもならない。善行や悪行をいくら蔵に収めても、人間のこころは善悪には染まらないという意味です。 たとえば、いくつもの善行を積んできた人が人生の最後に罪を犯してしまうことがありますが、それまでの行いから無罪放免とはならないです。同じように、悪行を積んできた人が一生悪人のままとも限りません。完全な善人にならないかわりに、完全な悪人にもならない。
こころの蔵に収めた悪が消えることはありませんが、こころは悪に染まらない。少しずつでも善いものを入れて蔵の中身を変えていくことができます。人生を後悔した瞬間から、善行を積み始めることだってできるのです。どれだけ年齢を重ねても、私たちのこころは善悪いずれでもなく常にニュートラルな状態です。だからこそ、私たちは精進し続けなければならないし、幾度でも人生をやり直すことができるのです。 当山では、過去から受け継いできた仏さまの教えや文化を「伝灯」と呼んでいます。明々と灯る灯明の火も、油を継ぎ足し続けなければ消えてしまいます。人のこころも同じ。いつも精進し、こころの蔵に少しでも多く善行を収めることが、自分自身を育て、周囲の方々の幸せな人生に繋がるのです。
合掌