清水寺の寺宝
Kiyomizu-dera Temple Treasures「二」
脇侍 地蔵菩薩と毘沙門天
本尊、十一面千手観音立像を奉祀する厨子の左右には、脇侍(※1)である地蔵菩薩と毘沙門天を祀った厨子が安置されている。いずれも本尊と同じく秘仏。33年に一度の特別開帳時にしか開扉されず、本尊のように御前立仏でその姿を想像することもできないため、この両脇侍の姿について詳しく知る人は少ない。
にもかかわらず、この二体は古くから参詣者の間で高い人気を誇る。その理由は、両脇侍が持つ物語。本尊の両側に立つ地蔵菩薩と毘沙門天には清水寺創建にまつわる伝承があるのだ。
縁起に由来する三尊形式
一般的に、千手観音の両脇侍には婆藪仙人(※2)と大弁功徳天(※3)が奉祀される。仏教における基本ルールともいうべきこの決まり事に則らず、清水寺が地蔵菩薩と毘沙門天を両脇侍とする特殊な三尊形式を用いた理由は、清水寺創建の由来を綴った『清水寺縁起』(※4)に記されている、と坂井さんは語る。
「清水寺を創建した坂上田村麻呂公(※5)が蝦夷征討(※6)へ赴く際に、開山延鎮上人(※7)は地蔵菩薩と毘沙門天を彫って武運を願ったそうです。蝦夷はそれまでに何度も朝廷軍を退けた難敵。京都から遠く離れた東北へと戦いに向かう坂上田村麻呂公にとって、延鎮上人の必勝祈願がどれほど心強かったかは想像に難くありません」
当時は、音羽山開山から間もない清水寺の草創期。まだ「清水寺」という名もなく、急峻な土地を開いて建てたいくつかの仮仏殿があるだけの小さな寺院だったと考えられる。
「現在のように誰にでも開かれた寺というよりは、延鎮上人の個人的な修行の場だったと考える方が近いでしょうね。坂上田村麻呂公は延鎮上人の教えにより観音菩薩に帰依していましたから、出征の報告に音羽山を訪れたのでしょう」
敵地では蝦夷軍の抵抗激しく、軍勢が野山に充満していた。そこに武勇で有名な坂上田村麻呂公がいよいよ本格的に乗り込んできたのである。この時の様子が『清水寺縁起絵巻』に鮮やかに描かれている。
「全滅をも覚悟するほどの猛攻撃のなかで、坂上田村麻呂公は『南無観世音、南無観世音』と信仰する清水観音に祈り続けたそうです。すると戦場にどこからともなく僧侶と老翁がこつぜんと現れ、坂上田村麻呂公の先に立って、僧侶は矢を防ぎ、老翁は敵に次々矢を射かけたそうです。二人は地蔵菩薩と毘沙門天が姿を変え現れたのです。こうして坂上田村麻呂公は蝦夷を打ち破ることができました。その後、無事に京都へ帰った坂上田村麻呂公は、本尊の両脇侍に地蔵菩薩と毘沙門天を安置し、現在に続く清水寺の三尊形式が誕生したというわけです」
清水寺の両脇侍が別名「勝軍地蔵」「勝敵毘沙門」と呼ばれるようになったのはこの伝承に由来する。武運を祈った延鎮上人の想いは、地蔵菩薩の姿からもわかる。
「通常、地蔵菩薩は右手に錫杖、左手に宝珠を手にしています。そのお姿は、柔らかな表情をしたやさしいお坊さんといったイメージですよね。しかし、清水寺の本尊脇侍の地蔵菩薩像は右手に剣を持ち、頭部には獅子頭の兜をかぶり鎧に身を包んでいます。さながら武人のような勇壮な出で立ちです」
一方の毘沙門天は、北方を守護する武神として知られる四天王の一尊。甲冑を着て立つその足で邪鬼を踏む勇ましい姿だ。
「長い歴史を持つ清水寺には、その細部にいたるまで先人が心血を注いだ信仰の証が存在します。現在は文化財として奉祀されている諸仏のひとつひとつの由来を知ることも参詣の楽しみ。本尊ご開帳の折には、ぜひ左右に立つ両脇侍にも注目してください」